ねぶたの変遷
青森ねぶた祭は、日本各地の祭りの中でも屈指の大きな祭典に発展しました。
享保年間(1716年~1736年)の頃に、油川町付近で弘前のねぷた祭を真似て灯籠を持ち歩き踊った記録がありますが、果たしてこれほどの祭りになろうとは、当時の人びとは夢にも思わなかったことでしょう。
その頃のねぶたは「奥民図彙(右図参照)」に見られるように、京都の祇園祭の山車に似ていたと思われます。
現在のような歌舞伎などを題材にした灯籠(ねぶた)が登場したのは、平民芸術が爛熟期を迎えた文化年間でしょう。その様子を江戸の風流人滑稽舎語仏(こっけいしゃごぶつ)が「奥ノしをり」に書いているといわれており、郷土史家の松野武雄さんが、昭和41年8月の東奥日報に書いています。
《天保十三年(一八四三)秋田の能代で七夕祭りを見た。それは〝ねむたながし〟と称して人形を出している。高さ3丈ぐらい(約十m)大きさ三間(約6m)四方の神功皇后三韓統一や加藤清正朝鮮遠征の人形で、ロウソクをともして、地車でひいている。人びとはカネ、太鼓、ホラガイではやしたて踊り騒いでいた。
まことに珍しいことで、これは津軽の弘前や黒石、それに青盛(青森)のあたりにもあるとのことである。》
秋田県能代市のねぶたは、現在では名古屋城を模したという城型で、大きさは青森ねぶたと変わらず、ほぼ同型のものが七~八台出て市街を練り歩いています。
青森ねぶた祭の特色の一つに、はねとの大乱舞があります。昔はおどりこ(踊子)といいました。いつの頃から〝はねと〟と呼ぶようになったかは定かではありません。しかし青森ねぶたに踊りがついていたことは、安永年間「一七七二~一七八一」の記録に残されています。
《青森では男女たび素足にカネをたたいてはやしながら、衣裳を着飾って踊っていて、しかも店ではこのカネも〝七月二日まで大販売〟とある。》(前出・松野)
今純三画伯がまとめた青森県画譜(東奥日報・昭和8年発行48年再刊)に、昭和三年の青森ねぶたの様子が画かれています。(右図参照)
当時すでに車で引くものもありましたが、大半は担ぎねぶただったようです。一人がねぶたを担ぎ上げ、四方から支えています。
「昔はどこの小路を見ても、ねぶたがゆれていたもんだス。言いかえればどんな小路っコへども入って行けだ。町の隅っコから隅っコまで祭り気分で、今のように特定のコースを時間まで決められて、見せるためにやるんではなくて、真に楽しかったスナ」 当時のねぶた師の長老、北川啓三さん(故人)はそう語っていました。
話は前後しますが、明治時代に入って青森ねぶたは一層大型化しました。明治三年の浜町のねぶたは、高さ十一間のもので百人で担いだといわれています。約二十mもあるねぶたをどうして担いだものか、とにかく四kmも離れた横内から見えたと記録されています。
しかし明治新政府から任命された青森県権令(今の知事)菱田重喜は、地方の旧習を悪習ときめつけ、ねぶたを始め盆踊りなどまかりならんと、明治六年、禁止令を出しました。
明治十五年に解禁されましたが、ねぶた祭が九年間も姿を消した時がありました。
大正の末期から昭和の初めにかけて仮装(ばけと)が大流行しました。青森県にとっては、凶作、金融恐慌、労働運動の目ざめ、そして生活の洋風化が著しい時代でした。不安を茶化したり、社会を批判する姿勢が、ばけと(化け人)の数を多くしたのかもしれません。
祭りは、青森市が戦災を受けた昭和二十年には中止されましたが、翌二十一年には油川や旭町で出されました。進駐軍に気がねしながらの運行だったといわれています。
青森ねぶたが、現在のように大型化したのは戦後です。その歩みは、観光化という大きな流れに乗り、どんどん巨大化してきました。
●1593(文禄2) | 京都にて秀吉侯の御前で津軽為信「津軽の大灯籠」を紹介、以後年中行事となる |
●1722(享保7) | 五代藩主 信寿 ねぶた見物(弘前) |
●1716~1736 (享保・年間) |
油川(青森)でねぶた祭行われる〔青森ねぶたが記録に現れた最初〕 |
●1772~1781 (安永) |
青森ねぶたに踊りがついていた記録あり |
●1788(天明8) | 比良野貞彦 「奥民図彙」にねぶた絵表す |
●1804~1818 (文化) |
ねぶた大型化、人形ねぶたが創案され、 かつぎねぶたも大型化の方向へ |
●1843(天保13) | 滑稽舎語仏が能代でねぶた見物 当時のねぶた祭りの様子を記録 |
●1869(明治2) | 浜町のねぶた「宝船」は高さ20mの百人かつぎの巨大なものだった |
●1873(明治6) | ねぶた禁止令(菱田県令)発令 |
●1882(明治15) | 同禁止令解禁 |
●大正末期 ~昭和初期 |
ばけと(化け人)大流行。組ねぶた登場。次年戦災で中止 |
●1946(昭和21) | 油川、旭町でねぶた |
●1947(昭和22) | 復興港まつり開催(海上運行始まる)復興に向け、戦時中中止されていたねぶたの運行が行われた。また、照明がローソクからバッテリーへ |
●1948(昭和23) | 港まつりとねぶた祭を結び大祭典に発展〔ねぶた審査制度設けられる〕 |
●1952(昭和27) | 青森観光協会創立 |
●1958(昭和33) | 青森港まつりを青森ねぶた祭へ変更 |
●1958(昭和33) | 「青森ねぶた祭」は、国鉄・東北三大まつり指定(周遊コース編成) |
●1960(昭和35) | 大阪・松竹歌劇でねぶたを採用 |
●1961(昭和36) | 大型ねぶた20台で戦後最大のパレード |
●1963(昭和38) | ねぶた太平洋を渡りハワイへ |
●1963(昭和38) | 青森ねぶた祭が青森市文化財に指定 |
●1968(昭和43) | 初の有料桟敷席好評 |
●1970(昭和45) | ねぶた「万国博(大阪)」へ |
●1971(昭和46) | 日本のまつり参加 |
●1972(昭和47) | 観客動員数200万人突破 |
●1972(昭和47) | 第1回ミス・ねぶたコンテスト |
●1974(昭和49) | 海上運行断念(艀不足の為) |
●1980(昭和55) | 「青森のねぶた」が国の重要無形民俗文化財に指定 この年、人出は300万人 |
●1987(昭和62) | 青森観光協会、社団法人へ |
●1989(平成元) | 運行の円滑化のため、黒装束は排除 |
●1992(平成4) | 新ねぶた団地のラッセランド登場 |
●1995(平成7) | 大型ねぶたの総合最高賞「田村麿賞」が「ねぶた大賞」へ |
●1998(平成10) | 青森市制100年ねぶた運行。担ぎねぶた登場 |
●2001(平成13) | 青森ねぶた保存伝承条例が施行。 (社)青森観光コンベンション協会発足 ねぶた イギリス大英博物館に展示 |
●2005(平成17) | ねぶた「愛知万博(愛・地球博)」へ |
●2006(平成18) | 高円宮殿下記念地域伝統芸能賞受賞 |
●2011(平成23) | 青森市文化観光交流施設「ねぶたの家 ワ・ラッセ」オープン |
●2013(平成25) | 公益社団法人 青森観光コンベンション協会に名称変更 |